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「君、花海棠の紅にあらず」(「鬓边不是海棠红」)原作日本語訳 61-2

61-2 逢変

程鳳台が曹府に到着すると、ちょうど曹府も大騒ぎになっていた。門外の警備員は直立不動、曹司令官は戦闘服を身にまとっていた。大広間で激しく叫びながらぐるぐる歩き回り、靴の音が床に響き、すぐにでも誰かに襲いかかるような勢いだった。子供たちは彼を怖がりどこかに逃げ去ったが程美心は彼を怖がらず、淡々とした笑みを浮かべ夫の怒りを黙って受け入れていた。「くそっ、早く殺しておくべきだった!ろくでなしめ!命令も聞かないし!命令を聞かない奴は殺すべきだ!これはくそったれの反乱だ!」程鳳台はいたずらっぽく笑って言った。「おやおや、誰を銃殺する気ですか?僕はちょうどあなたの怒りの頂点に遭遇したようだな!」曹司令官は怒りっぽく彼をにらみつけた。程美心は彼に手招きして言った。「あなたの事じゃないわ。中に入ってきて。」

姉弟二人はソファに並んで座り、程美心は事情を話した。原因は、曹の大公子が駐屯地で日本軍に何度も挑発され、我慢の限界をこえて今日ついに自ら日本軍と交戦したことだった。双方は実際には肉弾戦を行っておらず、単に態勢を整えて相手に砲撃を加えていた。作戦参謀がこっそりと外に出て曹司令官に戦況を報告し、彼はその電話の向こうで耳をつんざくような砲声を聞いた。停戦命令を発したが曹公子は聞かず、彼を呼び出して電話にでるように言っても聞く耳をもたず。2回目の電話をかけ、知らんぷりを決め込んだ兵士が応対し、通報をした参謀はすでに兵士に捕まり、軍で罰せられていたとのこと。曹司令官は怒り心頭だ!日本人が仕掛けてきてこちらが応戦することには大した問題はない。しかし、どうしても先に手を出すべきではなかった!曹司令官は自分が庶民の出であるとは自認しているが、文武両道であり荒っぽさの中にも繊細さがある。自分の見た限り穏やかな息子であり洋学堂にも通ったことがある聡明そうな子が、どうして何も考えずに行動するのか理解できない!彼は急に足を止め、腰から拳銃を引き抜いて弾倉を確認する。弾倉はいっぱいで、牛を一頭殺すには十分だ。そして外に向かって歩き出した。「くそったれ!あいつを殺してくる!」

程美心は実は心の中で計画を立てていて、わざと夫を怒らせ怒りが頂点に達したときに自分のひらめきがさも良いアイデアであることを示そうとしていた。この時急いで曹司令官を止め笑って言った。「ねえあなた、あら、銃を下ろして!自分の家の子供に刀や銃を使う必要がありますか!あなたの実の息子なのよ!」彼は怒りをこらえながらも程美心に銃を奪われた。 程鳳台は傍で見ていて曹司令官は本当に彼女を愛していると感じ、彼女以外だれも彼の怒りを抑えることができないと思った。曹司令官自体本当に程美心を愛している、なぜなら誰も彼の銃をおろさせるものはいなかったからだ。ちょうど怒鳴りつけようとした瞬間、程美心が優しく彼を止めた。「あなた長いこと怒っているんだから、座って少し休んで。私にいい考えがあるの。もし私の方法がうまくいかなかったらあなたは戦場に行って誰でも好きに殺すといいわ、どう?」

程美心はおそらく曹司令官の怒りを解くことがよくあるのだろう、彼は 程鳳台の隣におとなしく座り、彼女に手を振ってすぐに動くように合図した。程美心は慌てずに三女を部屋から呼び出しいくつか言葉を耳打ちし、三女は父親を怖がりながらも頻繁に頷いた。程美心は彼女に尋ねた。「宝貝児、全部覚えたかしら?」「覚えたわ、お母さん」三小姐は頷いた。程美心は受話器を取り駐屯地に電話をかけた。「もしもし、私は曹の妻です。あなた方の司令官に電話を取り次いで!三小姐からの電話よ——三妹妹からよ!早く!走って行って!」そう言い終え三小姐に受話器を渡した。しばらく待ってから曹公子が電話にでた。彼女は言い訳交じりに彼に言った。「うん…お兄ちゃん、私よ…私は大丈夫…お兄ちゃん、パパを怒らせないで。パパが家で怒って、銃を持って人を撃とうとしているの。弟と私は怖くて震えてるの。お兄ちゃん、いつ帰ってくるの?私怖い…」

兄妹二人は数分間話をしたが戦地の通信状況があまり良くないため、後半は通話に苦労した。程美心はとうとう電話を取り優しく微笑んで言った。「貴修?私よ。この子はまったく!性格がお父さんよりも荒々しいわ!」曹司令官がにらみつけたので彼女は媚びるような目を投げ返した。「今の時点で、貴修、あなたは冷静になるべきよ!あなたがことを起こしたらお父さんはどうなるかわかるでしょ?私たち曹家は正統ではないの!平穏無事でいる人の中には、私たちに陰口を叩く者もいるでしょう。弱みを握られるようなことになるわ!去年の牛家を見てよ、牛家はどうして廃れたのか!」

電話の向こうで曹公子が何か言ったが、確かに良い言葉ではなかった。 程鳳台は程美心の笑顔が減るどころか目がますます冷たく、容赦なくなっていくのを見た。突然彼女は目を閉じ、再び開くと笑顔が戻っていた。「そう、私は普通の主婦です。子供の世話やマージャンをしていて、見識があるわけじゃない。あなたたちが風雨にさらされ多くを経験してきたことに比べたら、私は何も知りません。」彼女は目を横に向け、三小姐を見つめ、喜びに混じって少し厳しい笑顔で言った。「男たちの仕事は私にはわからない。ただあなたの妹のことが心配、だからあなたの行動は適切でないと思う。彼女は来年結婚する予定で、その相手は林家の次男よ、あなたも会ったことのある人です、ええ……そう、彼です。穏やかで、品行も立派な。今、私たち曹家に何か悪いことがあったら、あなたの妹はどうなるの?下の二人の男の子は何とかなるかもしれないけれど女の子は耐えられないわよ!」

電話の向こうで曹公子は迷っている様子だった。そこで程美心は追い打ちをかけた。「あなたたちの母親があなたたち兄妹を育て、それを私に託したの。あなたは男の子、大きくなれば私はあなたを制御できません。ただ、あなたの妹を無事結婚させたいと思っているだけで、それでやっと役目を果たし、彼女にも顔向けができる。私がこんな風に考えられるのに、あなたは兄として妹のために我慢できないの?何か腹に据えかねることがあるなら、三小姐が結婚した後にでも吐き出せばいいじゃない?日本人はここに何年もいる、彼らは逃げだすことができる?」

三小姐は自分の嫁ぎ先の話を聞いて、すぐに恥ずかしくなって階段をかけ上がり、部屋に戻った。程美心は電話で曹公子と事を話し合い、最後に曹公子を心配していることを告げやっと電話を切った。曹司令官はこの時点で怒りの大半が収まり、大義親を滅す、という事態に走る必要はないと理解したが、まだ機嫌が悪いままで言った。「お前、何のつもりだ?三女が結婚したら、彼は好き放題できるとでもいうのか?」程美心は笑い飛ばして言った。「今はとにかく彼をなだめることが先決よ。残り一年の時間であなたは父親として息子を諭せないの?そうなら無駄に養ったということで、本当に銃殺されるべきだわ。」曹司令官は冷ややかに笑った。程鳳台はこの一幕を見て、かつて程美心が彼に使った同じ手法を思い出した。今では姉に対して怨みはないが、別の角度から見ると心がざらつくと同時に胸が痛む。まるでいつの間にか曹修と同じ世界の人間となったような気がした。曹貴修の状況が、かつての彼の弱みと同じだったからである。曹司令はやっとこの小舅子のことを思い出し、程鳳台の太ももをひとたたきして驚かせた。「で、お前、何で来たんだ?」

程鳳台は我に返り、急いで事の経緯を話した。曹司令官は聞いて驚き、「おいおい、まさか!」と何度も電話をかけて調査を始めた。一度はこれを疑い、次はあれを疑い、彼の仇敵は実際に結構いて、考えれば考えるほど、裏切り者らしき人間がいたるところにいることが分かる。結局、彼らが軍関係者であろうとなかろうと、すぐに結果は出ないだろう。程鳳台は曹家を後にし、直ちに二人の仲間の家に慰問に向かった。このふた家族は本当に大家族であった。年老いた者は八十歳以上で病床に臥せり、一番小さい者はまだ乳児だ。家族全員が一人に頼って生計を立てており、その当事者が亡くなれば、まさに天が崩れるようなもの。女性たちや子供たちに泣かれ程鳳台はひどく心を痛めた。この慌ただしい慰問が終わるとすっかり空は暗くなり、夕食も取らずに車の中で額を揉んで座っていた。彼がこんなに心を悩ませた日は久しぶりだった。

程鳳台はため息をつきながら老葛に尋ねた。「何時だ?」彼自身が腕時計を身につけているにもかかわらず一度も見ようとしなかった。老葛は車を運転しながら手首を見上げ言った。「七時四十五分です。范家に行きますか?それとも先にどこかで食事を取りますか?」程鳳台は車窓を見て尋ねた。「あれ、ここはどこだ?清風劇場方面かな?」「違います、遠いですよ」「それでもちょっと行ってみようかな。」

老葛は何も言えず、ただ指示に従って車の向きを変えた。 程鳳台が商細蕊とつきあい始めてから、老葛は彼の家の二に対して新しい見解を持つようになった。かつての程鳳台は異性関係を求めると、十回中九回は寝るために行くことであり、あとの一回は寝るための下地を作るためだった。しかし今、程鳳台が商蕊を尋ねても十回中一回も寝ることができないかもしれない。商老板はやはり商老板で、忙しすぎて私的な時間がほとんどない状態。それでも会いに行ってちょっとばかり話し、それは恋人同士という感じではないと老葛は思う。ではそれがどんなものかと言われても老葛にもわからない。老葛が確かに言えるのは、商老板は本当に才能があるということ、以前は戯曲を聞くのが好きでなかった二が、商老板のものは喜んで聞くようになったこと、そして二が以前は「寝る」ことが好きであったが、商老板にはすっぽかされていることである。

老葛は二のズボンの中のさまざまな出来事を思い出し、くだらないことを考えて運転した。 程鳳台は頭を仰け反らせて目を閉じて休んでいたが、心の奥でかなりの重荷を感じていた。商細蕊は今、日増しに彼を束縛しており、昔の二奶奶よりも強力だ。二奶奶が彼を見張っていたのは、大人が子供を管理し、子供が騒動を起こさないように心配しているのに似ているというならば、商細蕊は猫や犬がお椀の中の肉を見つめているようで、誰かが動くといつでも噛み付くか、いっそ肉をすべて食べてしまう。これではたまったもんではない。

今朝水雲楼は新しい役者を迎え入れ、商細蕊は試めすこともなく、待ち望んでいた二人を選んで共演させ、調声の試験も不要だった。彼らがどんな声の調子か、商細蕊ははっきりと覚えている。かえって戯曲を歌うときは彼が他の人の声に合わせている。楽屋は相変わらず混乱していた。商細蕊は雪白の水衣を身に着け、笑顔で人々と会話し、空気中には甘い香りが漂っており、誰かが小さな鍋で白キクラゲを煮ているのがわかった。

十九は新しく来た役者たちに向かって大声で言った。「水雲楼の規則についてだけど、他のことは後で話すとしても、まず最初に覚えておくべきはこれよ!ここにあ美味しいもの、美味しい飲み物をまずは班主に試食させなければならないの!」そう言いながら、一碗の白キクラゲスープを商細蕊の下に持って行った。そのスープは濃厚で甘ったるく、十九はさらにさくらんぼの缶詰を二匙すくって混ぜた。商細蕊は大きな口で飲み込んで、「舞台に上がる前にこれを食べると、嗓子が詰まるな。」と眉をひそめた。

沅蘭は鏡の前で化粧をはたきながら笑った。「嗓子を詰まらせるのもいいわ!班主の喉の調子は高くて誰がついていけるのかしら?嗓子を詰まらせておいて、私たちがやっとおいつくってもんよ!」

商細蕊はこの世辞に喜んで白キクラゲスープを一口飲んだ。自分は大いに楽しんでいるが、他の役者たちは舞台に上がる前にこれを食べることは許されない。彼の喉は良いからロックできるが、彼らの喉はそれほど良くないので、詰まってはいけないのである。おそらく水雲楼の第二の規則は、彼らの班主が人に対しても自分に対しても常に二重基準を持ち、班主が自分に対する寛容さを手本として学ぶことはできないということであろう。

程鳳台は扉を押し開け、扉を二度叩いたが入らずに入口の薄暗いところに立って笑顔で言った。「商老板、ちょっと話があるんだけど。」商細蕊は今夜の彼の笑顔は疲れていて優しいものだと見てとって、突然恥ずかしくなった。そして、はっきり言わないで、公然と人目を避けて言う話ってなんだろう?と思い、みんなが彼らを見ているので、商細蕊はますます恥ずかしくなって彼のもとへ行くのをためらった。

沅蘭は彼をからかい「呼んでいるよ!班主、早く話しに行ったら?」と商細蕊を小突き回して外に追い出し、さらに楽屋の扉を意味ありげに閉めて二人を小さな暗い路地に閉じ込めた。その小さな暗い路地には一切の明かりがなく、商細蕊はまだ白キクラゲスープを手に持っていた。程鳳台は頭を下げて見て言った。「食べ物?それくれる?お腹が減りすぎて死にそうだ!」商細蕊はこの一碗の甘いものが大好きだったが、もっと愛しているのはこの二だ。 程鳳台が本当にお腹を空かせているのが分かり、彼は無邪気に碗を差し出した。 程鳳台は数口で完食し口を拭って言った。「商老板、ちょっと難しい問題がおこって、これから数日間は君に会いに来られない。」

商細蕊の心は一瞬で冷え、険しい顔をして一碗の甘いスープを手放したことを後悔した。「何か難しい問題なの?」と尋ねた。程鳳台は彼が発作を起こすのではと思い軽く笑って言った。「言っても分からないよ、全部仕事上のことだから」「言わなきゃ分からないじゃないか」「きっと分からない、実は自分でもまだよく分からないんだ!君は君の芝居を歌えばいい、僕はこれで数日忙しいだけだ」「これから数日ってどのくらい?」「数日かからない」「でもちゃんと日数を教えてよ」「四、五日ぐらい、多くても七、八日。町を出なきゃいけないこともあるかも」「それが何日か教えてよ!」「一週間あれば確実に終わるだろうな」「じゃああなたは僕の芝居を見に来られないんだね!」

商細蕊は最初から冷たい口調で話し、最後には悪意に満ちた口調に変わった。 程鳳台は商細蕊に挑発され、言葉を失った。商細蕊をからかい、取り繕おうとしたが、怒りに対して無力であることを感じ、心の中で大きな問題が発生していることを察知した。問題は既に芽生え、将来的にはより複雑で深刻な状況に発展する可能性がある。しかし程鳳台は前向きに物事を考え、彼の気まぐれな性格に対処することが重要だと考えた。そして、 程鳳台が巧妙な手段を尽くしても、彼の激しい反応に沈黙が広がった。 程鳳台はなんとか取り繕うとしたが商細蕊に挑発され逆上してしまった。「なんでわからないの?そんなに大袈裟なこと? 俺が数日来ないだけさ、まともな仕事に行くだけだよ!」

商細蕊は声を大にして「なんでそこまでするの!毎日僕の舞台を見にくるのに、大して手間はかからないでしょ?僕と小周子の共演を見に来るって言ったじゃない!何か難しいことがあるなんていっても僕は騙されないからね!」程鳳台はしばらく彼を睨みつけ、そのまなざしからは狂気と残忍さの光が見て取れた。いよいよこういう事態が来てしまったか、と平陽、蒋夢萍、彼の狂気の噂について一瞬で理解が深まった。程鳳台は商細蕊が突然狂ったわけではないと考えている。いままでずっと彼を甘やかしてきたため、自己中心的になり、ますます高望みするようになっていったのだ。心の中で結論がでた程鳳台は、くるっと後ろを向いて歩きだし、途中手に持っていた碗を地面に投げつけた。夜の暗闇の中で高らかに音が響き、碗は粉々に砕け散った。商細蕊は程台がこんな風に怒るとは予測しなかった。彼の背中を睨みつけながら叩き殺してやりたいと思った。


*緑部分はWEB版のみ
119.pngしろうとの趣味の簡略版の翻訳です。誤訳ご了承のほどを。時々訂正します。無断転載禁止

*さすが美心、肝が据わってる。曹司令官のような人物にはうまく手綱を引いてくれるこういう人が必要です。かつて瀕死の家族を救うためという名目で二奶奶と政略結婚させた手口よ再び。久しぶり登場の老葛はあいかわらずでおもしろい。ノータッチのようで観察眼が鋭いです。以前付き合い初めの頃はこの楽屋裏の狭くて暗い路地も二人には秘密の甘い場所だったけど、こうなってくるとほんとに暗くて陰鬱な場所に思えるから不思議。二爷も日々大変な状況の中ちゃんと顔を出して直接不在の旨を伝えに来ているのに、自己チュー商老板はあげた好物の白キクラゲスープさえ恨みに思ってしまう始末。どうやって歩み寄っていくのかこの二人。


# by wenniao | 2024-03-08 15:39 | 「君、花海棠の紅にあらず」原作を日本語訳 | Comments(0)

「君、花海棠の紅にあらず」(「鬓边不是海棠红」)原作日本語訳 61-1

61-1 逢変

沅蘭は薛千山との交渉役に抜擢され二人はある酒楼で酒を飲みながら話をすることになった。ほとんどの女優たちは甘い話術を持っており、特に水雲楼出身の女優たちは交際上手である。どのように褒めたりほらを吹いたりしたかは分からないが、なんと彼女は実際に二人の若者の引き抜きに成功した!これは商細蕊にとって大きな成果だった。商細蕊は手の付けられない二月紅の事はそっちのけで、初々しい若者がやってくるのを楽しみにしていた。

二月紅は妊娠しており、時が経つとおそらくそれが顕著になり、「先奸後娶(先に不義の行為をしてから結婚すること)」と言われるのはあまりよろしくはない。結婚式はもう目前で準備期間は一か月もなく、薛千山も焦っていた。翌日、彼は四喜児と同じ酒楼で会い、あらゆる手段を使って周香芸を強引に奪おうとした。四喜児は若い頃は美貌と名声で知られており、その気難しい性格は一種の独特な味わいがあった。彼の古い愛人たちの言いぐさでは「嚼み応えがある」と言われていたが、今や半世紀以上が経ち、その美しさは全て失われ、その気難しい性格は噛んでも嚙み切れないしわしわの牛筋のようでほっぺたが痛くなるほどだ。薛千山は四喜児との交渉に半日かかり、口がからからに渇き最終的には大金を失うはめとなり、彼に手を出され誘惑され、惨めな目に遭う寸前だった。非常に屈辱的で嫌な思いをし、心身ともに疲れ果てた。

周香芸獲得は成功した。商細蕊が気に入ったもう一人の役者は楊宝梨という名前である。十七、八歳の年頃で、劇団では淡々と前座を務めていた。周香芸よりも状況は少し良く、いい点は四喜児に罵られず苦しめられなかったことだ。商細蕊は観劇が好きで暇なときには北平市全域の小さな劇団をすべて見て回る。彼は役者を応援する以外に舞台の裏に潜む隠れた宝石を見つけているのだ。周香芸は検証済みの確かな宝石であり、今でもファンは彼を忘れられず、商細蕊に王昭君について近況を尋ねるほどである。楊宝梨は商細蕊から見てよく訓練された適材だ。彼を手に入れるのは簡単で、薛千山は二百元払って、人に言葉を伝えるだけでなんなく手配できた。楊宝梨は商細蕊が彼を指名したと聞いて、一晩中眠れなくなるほど嬉しかった。彼らは同じ都市、同じ職種で年齢の差はほとんどない。しかしその地位はまるで天と地ほどの差がある。楊宝梨にとって、商細蕊は神様仏様であり、新聞やラジオで見る人物である。たまに観客席から彼を見上げると、遠くからで顔がはっきり見えなかったが、衣装や装飾が豪華で照明の強い光の下で星の如くきらめき、まるで絹と宝石で作られた夢の中にいるような人物だった。楊宝梨は彼と一度も会ったことも話したこともなく、なんの縁もゆかりもないのになぜか突然幸運が訪れ、商細蕊のお眼鏡にかなったというわけだ。楊宝梨は商細蕊がかつて 程鳳台を連れて彼の芝居を一度見たことを知るわけがない。楊宝梨が歌いだすと、生まれつきの泣きの声質があり、鼻にかかったような声で非常に柔らかく悲しい美しさがあった。それを感動的だと受けとる人もいる、例えば商細蕊。受けつけない人もいる、例えば程鳳台。

ある日、 程鳳台はしきりに瓜子のお菓子を食べ、茶葉を啜り、たばこを吸っていた。商細蕊をいらつかせ、一度テーブルを叩いて低く吠えた「静かにできないの?!」と上から下まで彼を見下した。「もぐもぐが一向に止まらないね!女みたい!」程鳳台は彼に向かって笑いかけ「俺たちそろそろ退散しないか?聞く価値があるかな?」そして彼が不快に思わないようにお世辞を言った。「商老板よりも遙かに劣ってるしさ」商細蕊の顔色は明らかに曇りから晴ればれとし、首を振って軽やかに言った「そりゃそうさ!でも彼も悪くないよ!」「彼は小周子ほど上手ではないと思うけど。この歌、あまりにも陰気な感じ。」商細蕊は首を振って言った「あなたはわからないんだよ。多くの人は自分の師匠の声に従うよう一生歌を歌うんだ。自分のスタイルを見つけるのは並大抵な事ではない!楊宝梨は若いのに彼なりの声の味があって、一千人に一人、一万人に一人同じものはない。僕が目にとめたくらいだ、絶対に才能がある!」程鳳台はステージ上の人物を見つめ、集中して味わってみたがまだ良さがわからなかった。

商細蕊は舞台を見つめてため息をついた。「私は普通の人間に飽き飽きしている!誰とも同じでない、他とは違う、それがいいんだ!」これを聞いた程鳳台は理解した。楊宝梨が本当に優れているかどうかはわからないが、商細蕊の心をつかんでいるのは確かだ。彼は舞台上でも舞台下でも、舞台役者として、他の人とは違う独自のスタイルを求めている。

周香芸と楊宝梨は素晴らしい未来を手に入れ、それぞれ心から喜びに満ちあふれて古い友人に別れを告げ、荷物をまとめて夏至の日に一緒に水雲楼に入門することになった。前日、二月紅は今の身分相応の鮮やかな服を身にまとい、静かに裏口に現れて別れを告げた。商細蕊の機嫌を損ねないよう、皆が彼女に多くの注意を払うわけにはいかないためだ。経験豊富な劇団員たちはこの娘が普段は控えめで、特に美人でもずるがしこくもないと思っていたのにまだデビュー前に自分の相手を見つけたことに驚いていた。人は見かけによらないものだ!若い役者たちは商細蕊の考えを基準にして、一様に二月紅を見下し、水雲楼の叛逆者と見なしてた。

他の誰もが彼女を無視するところ唯一腊月紅は違った。彼は恭しく二月紅の手を優しくひくと舞台の片隅で熱心に話しかけた。「師姐、そんなに急いでいかなくてもいいんじゃない?僕の芝居を見てからにしたら?」二月紅は突然結婚することになり急に妊娠してしまい、ちゃんとした思い出を腊月紅と共有する時間がなかった。二月紅はちょうど頷こうとしたところで、薛家からの使いの老婆が頭を出して急かしてきた。二月紅は老婆に対して畏れ多くも小声で言った。「少しだけ遅らせることはできますか?今日の芝居を見てから行きたいのですが、いいですか?」その口調には全く妾としての主人の気概がなかった。老婆が返事をする前に、沅蘭が高らかに言い放った。「かまわないでいいわ!十姨太、急いで!ここは埃がたち込めるような場所で、長居しない方がいいわよね?気持ちは分かりましたから!」二月紅はまた彼女を罵倒しはじめ最後にまたたいそうな嫌味を受ける屈辱は避けたかったので、腊月紅の手をしっかり握りしめ、商細蕊に別れの言葉を述べようとした。

商細蕊は後ろを向いたまま「うん」と一言だけ言った。小来が商細蕊の代わりに事前に用意していた紅包を二月紅に手渡そうとしたが、その時沅蘭が再び声を上げ、小来を止めて言った。「十姨太、私があんたをとやかく言ってるわけではないのよ!これはあまりにもおかしくない?水雲楼はここ数年あんたを養って、いい喉とスタイルを与え、みんなに愛される清新で華やかな一輪のつぼみのように育て上げたのよ。あんたが去っても私たちは何の報酬も期待してないわ。でもせめて私たちの班主に頭を下げるくらいのことしたらどう?」二月紅は戸惑いと不安で目を赤くした。商細蕊に頭を下げるのは当然のことだが、こうして圧力をかけられ頭を下げるのはいじめのように思えた。腊月紅は師姐が嫌なら、自分が前に出て彼女を守るために争うつもりだった。商細蕊も沅蘭がこの手を使うとは予想しておらず、手にしていた仕事を止めた。君たちはずっとそうやっていればいい、でもなぜまた私を巻き込むんだ?

商細蕊の性格上、二月紅に対して非常に愛情深く心遣いが行き届いているというわけではなかったが、一般的に劇団の班主として打つ、罵る、いじめるといった冷酷な態度をとることはなかった。彼は年下の弟子の劇団員たちに対しては先輩としての態度をとり、比較的寛容で親しみやすかった。褒めそやして彼を喜ばせる者には笑顔で接し、言葉が不器用で無口な者にも公正に接することができた。しかし、沅蘭たちの横柄な態度は最も許せなかった。商細蕊の困った点は、組織をまとめる指導力がないという事であり、水雲楼には常に裏切り者が蔓延しており彼は無知な君主のような存在だった。二月紅は商細蕊の以前の優しさを思い出しながら、涙をこらえて彼に三回叩頭した。小来は急いで彼女を起こし紅包を手渡した。商細蕊は身を斜に構え彼女を一瞥し「今後は自分を大切に!」と言った。

二月紅が去る時、腊月紅は数歩追いかけて送り出し、彼女が車に乗るのを見とどけ絶望した様子で演技のために戻った。注意が散漫した状態で舞台に立ったため客席からブーイングをうけ、落胆して舞台を降りた。役者たちは皆、商細蕊の気性を知っていた。今日は商細蕊の大一番の舞台であり、前の演技に何か問題があれば場の雰囲気が乱れ、後続の演技に影響が出る可能性があった。これは商細蕊としても大いなる回避すべきことだった。腊月紅は惨めだった。商細蕊はやはり遠くから大変な勢いで腊月紅に近づき、彼の大腿部に一蹴りをいれ、次いで雷鳴の如く激怒した。「おまえなんてことをしてくれたんだ!二月紅がいなくなったら真面目に演じる気がなくなったとでもいうのか?それなら彼女と一緒に嫁入りしてしまえ!」

程鳳台は扉の外で彼の獅子のような咆哮を聞いて、扉を押し開けて中を見ると、腊月紅が土下座し商細蕊がその背中に足をかけていた。本来なら英雄的なポーズだが、旦角の化粧がまだ半分残されており、人を殴るときに水袖が揺れ、髪の花飾りが乱れ飛び、まるであばずれ女のように見えた。

程鳳台は笑って言った「ハハハ!商老板、これは『武訓徒』?それとも『武松打虎』かな?」皆が笑い商細蕊はぷんぷん起こりながら腊月紅を離し、振り返って小来にガラスの襟飾りを留めさせた。腊月紅は地面から手足を使って這い上がった。確かめずとも下半身には商細蕊に蹴られてあざだらけだろう。他の人たちは彼を慰めて言った。「幸いなことに、お前の失敗は班主の舞台では起きなかった。もし班主と同じ舞台に立ってお前が芝居を崩したとしたら…ああ…」ともはや言葉に表すどころか考えることすらできなかった。腊月紅はその時急に身体の痛みがなんでもないものであると感じた。

役者たちは演技し世間話をした。商細蕊は芝居を終え、鏡の前で半ばうつむいて呆然と座っており、雑事には無関心で一切答えない。彼の様子は単に呆けたとは言えず、むしろ舞台に入り込んでいると言わねばならない。こうして半時間ほどで、再び舞台に立つのである。その間、程鳳台はずっとソファで新聞を読んでいた。商細蕊が舞台から降りてくると、観客もその後ろを追いかけ、彼の周りにはひとときも休息の時がない。

商細蕊と 程鳳台が知り合った頃、彼はどんな有名な贔屓客とも付き合わなかった。彼は舞台を終えると必ず程鳳台と演劇のことを話し、それから夜食をとることがお決まりだった。しかし二人の関係が長くなるにつれ商細蕊は徐々に通常の社交活動に戻り、ご贔屓たちとの会話が次第に盛んになっていった。

程鳳台は傍らで嫉妬もせず、きまずさも感じず、ただ自分の茶を飲み、たばこを吸い、新聞を読みながら、商売の事を考えていた。商細蕊は彼の姿を見ると心穏やかになり、何も言わなくても十分だと感じた。彼はちょっと変わっていて、周りがどれほど賑やかであろうとも、程鳳台がそこにいなければならないと思っているようで、まるで 程鳳台以外の人間はお伴ではないかのようである。たとえ二日間誰とも会わなくても平気だが、それが 程鳳台となるとかんしゃくを起こすだろう。そのため、程鳳台はしばしば用があってもなくても楽屋に座っており、まるで通って来ているかのようだ。化粧を落とすと商細蕊は贔屓客たちと一緒に食事に赴く。 程鳳台は新聞をくるりと巻いて茶卓の下に入れて帰って寝てしまう。新しい客の中に程鳳台を知らない者がいれば、この紳士は一体何者なのかさっぱり理解できないだろう。観客席では彼を見たことがないし、風格からして劇場の仕事をしているようにも見えない。二爷を知っているなじみの観客たちは、程鳳台が葉巻を片付ける時間を利用して、笑いながらこう言った。「程二のこの応援スタイルはますますに似てきたね」有名な斉王の名前が挙がると、場にいる老世代は皆笑った。言われてみれば本当にそうだ!商細蕊も 程鳳台を見つめて笑った。

程鳳台はスーツを着ながら「ああ、 斉王、知ってるさ! 彼はどのようにしていたの?」と尋ねた。「彼はね、包間(貸し切り席)には絶対上がらない。彼は楽屋に座って大きな葉巻を吸っている。寧老板の番が来ると、斉王は脇役になって舞台に上がり、一言セリフを言って適当に動き、それが終わるとまた楽屋に戻って大きな葉巻を吸っていたよ。」斉王が寧九郎を支えるように、 程鳳台が商細蕊を支えるという比喩自体がある種の曖昧な意味を含んでいる。この業界にいる誰もが斉王と寧九郎の関係が何を意味するかを知っている。 程鳳台は笑って言った。「私は斉王よりも熱心さ。商老板に聞いてみて。俺は包間に入る回数が多い。今日のこの芝居を商老板が演じたのは少なくとも八百回は見ているよ。もう前に行くのは面倒で、聞いているだけで歌えるようになったさ!」観客たちは一斉にどよめき、「二一度唄ってみせてよ。あなたはいい声をしてるから商老板に教えてもらえばすぐにできるよ!」と言った。 程鳳台は大笑いし「彼が俺に教えるって?彼の性格からして、叩かれるのはごめんだよ!」彼は商細蕊を見つめて言った。「さて、俺はこれで失礼するよ。皆さん楽しんで。商老板?」商細蕊は頷き言った「明日も来てくださいね。小周子と僕の『紅娘』を見せてあげる」程鳳台は笑顔で応えた。

翌日は周香芸と楊宝梨が入団する日であり、同時に入団する老生二人、花臉二人、武生一人もいた。みんな一緒に梨園会館で祖師爺に祈りを捧げ、例によって賑やかな様子が見られた。しかしこの賑やかさは外部に公開されるべきではないもの。程鳳台はもともとこれらの役者たちの内情にはあまり興味を抱いていなかったが純粋に商細蕊のお供をするために来ていた。商細蕊が彼を招待して見守ってくれるよう頼んだので、誰も異議を唱えなかった。その他の参加者は、数人の梨園の名優や前輩たち以外は興味津々の杜七だけ。杜七は腕組みをして満足そうに微笑み、まるで自分の家に新しい仔猫がやってきたかのようで、彼ら若き役者に大きな期待を抱いているようだった。

周香芸と楊宝梨はそれぞれ青い長袍を身にまとい、きちんと整えられて、書類を整理し、手印を押した。楊宝梨は一気に興奮し、役者として成功した光景を妄想していた。一方、周香芸はあまり気にせず、ただただ苦労が実り、これからはもう夜叩かれ朝責められる生活に我慢しなくてもいいんだと感じていた。手印を押すとき、周香芸は涙を浮かべた。祖師に祈りを捧げると、周香芸は規則正しく頭を下げ香を炊いた。楊宝梨も頭を下げ、突然商細蕊の方に向かって跪いて地面に額をつけ、はっきりと三回頭を下げた。皆は驚き、何を意味しているのか分からなかった。商細蕊は小さく後ずさりし、なんでここ最近こんなに私に頭を下げる人が多いんだろう?と思った。楊宝梨は「ここにおわす祖師は梨園のすべての人間の祖師、商老板は私楊宝梨の祖師です。祖師の前で、弟子が一礼します!」といい、周香芸は呆然と立ちすくんでいた。彼には同じようにできるはずがない!楊宝梨が言ったことは彼も同じ気持ちではあるが、しかし彼には真似できない!

楊宝梨のこの行動は、確かに悪目立ちすぎると思われた。外部の人間たちは、このようなやることが派手な者が劇団にいると何か騒ぎが起こるかもしれないと心配した。水雲楼の何人かは同様に大胆で目立ったことをするようなものもいたので、同じようなタイプを見ると競争意識を感じ、軽蔑の眼差しを向けた。しかし他人がどう見ようと商細蕊は明らかにこのお世辞の技に非常に感激しており、にっこり笑って頭を振り、口にはわざと謙遜な言葉を添え手で楊宝梨を立たせた。まるで暗君のような陶酔状態で、他人が見ていて慌てるほどだった。

儀式が終わると、皆は食事に行くために前後に呼び寄せられた。 程鳳台はまず行かないだろうと考え、商細蕊に別れを告げた。商細蕊は外部の人たちの前で猫をかぶる演技はまだまだ続き、真剣な場面では礼儀正しく、少しの引き留めを演じた後、黙って人を解放した。

程鳳台は家に戻り、顔を洗って食事をしようとしたそのとき、彼の大番頭が真っ青な顔で、北方の荷物にトラブルが発生したと急いで報告に来た。 程鳳台はそれを聞きおおよその状況がわかった。すぐに眉をひそめて尋ねた。「荷物は今、誰の手中にあるんだ?負傷者はでたか?」

怪我だけにとどまらず、二人が死亡し三人が負傷した。死んだのは彼の最強の部下だった。 程鳳台は高額な商品を失い、部下二人を失ったことに心を痛めた。彼は北平に来てからの数年間、外部では曹司令の銃で守られ、内部では范家の支持を得て、どちらも役に立たない地域ではお金を使って道を切り開いてきた。乱世の中にいても程鳳台のビジネスは順調だった。されど乱世であり、予測できない出来事が次々に起こり、防ぎようがない。家にこもって座っているだけの善良な人々ですら、いつ災難が降りかかるかは保証できないのだ。火中で仕事をしているならなおさらである。江湖の世界は常に暗黒だ。

程鳳台はすぐに冷静になり、厨房に料理を命じ仲間に食事を与えながら話を聞いた。二奶奶はその男が元気がないのを見て、窓を隔てて座り込み恐る恐る聞き耳を立てた。当初商品を護送することは危険だとわかっていたもののこんなに状況が混乱するとは。軍隊が武装してトラックを護衛していたのに、それでも何者かが堂々と強奪するとは思ってもみなかった。そして強奪が始まると、それはまるで戦争さながらになる。

食事の後、 程鳳台は部屋にもどり二奶奶と相談し、二人の部下の家族に一時金を支払うことにした。彼らは十年間彼に従い生死を共にしてきた。彼は、二つの家族が一生涯にわたって食べていくだけの保証でなければならない、と良心を持って決意した。それは小さな額では収まらない。二奶奶はこれを聞き、いくらとも聞かずに無言で封筒を開け印鑑を取り出し、支票に捺印しながら言った。「このことは、あなた自身が直接相手の元に行ってお金と心からのお悔やみを届けて初めて仁義がなりたつというものよ。」程鳳台は笑って言った。「ああ、その通りだ。最初に姉さんの家に行ってくるよ。夜遅くに街を出るのはよろしくない。今のところ誰が手を下したのかもわからないし。これは冗談ではすまされない。もし義兄たち軍方の話じゃなかったら、別の方法を考えなければ。君は待たなくてもいい。今夜は范漣の家で寝かせてもらおう。彼と話をするから。」そして続けて言った。「支票はとりあえず君が持っていて。この金は一度に全部渡さないほうがいい。普通の家庭が突然富むのは良くないことだ。」

三男坊は乳母に守られながらふらふらと部屋にやってきて 程鳳台の足につかまった。 程鳳台は戸棚の前に立ちタオルで顔を拭き、汗で頭は濡れていた。心中は考え事でいっぱいで、足を震わせ子供を見ることもなかった。三男坊は口を尖らせ、すぐに母親に抱かれて連れ去られた。

*緑部分はWEB版のみ
119.pngしろうとの趣味の簡略版の翻訳です。誤訳ご了承のほどを。時々訂正します。無断転載禁止
*思うところあってこの章より簡体字名詞を日本語の漢字表記にすることにしました。(以前の部分も徐々に訂正予定です)



# by wenniao | 2024-02-26 21:20 | 「君、花海棠の紅にあらず」原作を日本語訳 | Comments(0)

「君、花海棠の紅にあらず」(「鬓边不是海棠红」)原作日本語訳 60-2

60-2 軍師

蕊は水运楼の中では比較的若い方であり、滅多に先輩風を吹かせる機会はない。しかし今回は容赦なく大人びた態度を見せ、人々の心を背けるような形になった。商蕊は考えた。結婚すれば確かに看板役者を失うことになり、子供を産むことで喉も体形も崩す危険がある。良い苗が完全に台無しになる。ちゃんと気を付けていても少なくとも二年は復帰できないだろう。二月紅はまさに絶好の年齢で、この時期の二年は無駄にできない。だから互いを考慮して、薛千山が残してくれた小さな罪は流産させるべきだ。迷う余地はない。

蕊は自分の考えは正しいと思ったが、この非情な一面が露呈することでその場にいる者たちの心はひんやりとした。沅は直前まで息巻いていたが、堕胎の話を聞いて女性として感情移入したかのように何かうすら寒いものを感じ、低い声で「野種を残すよりも、流産させる方がいい」とつぶやいた。その声はどこか嗄れておりそれ以上何も言わなかった。程台は彼らが女優というものに対してどのような規則を持っているのか理解できなかった。ちょっとおかしくないか?たかが一幕の芝居のために、人の命をかける値打ちがあるんだろうか?

二月紅の心は凍り付き泣きたくても涙もでない。弱々しく首を振りながら「 班主、私それはできません」といった。 彼女の額にはらりと落ちた一房の髪が腊月紅の首筋で揺れ動き、彼の心をかき立てた。彼女はもろくて優しい姉妹だからだ。商蕊は言った「まだなにか問題があるの?少しの痛みも我慢できないのか?」しかし、これは痛みとは程遠い話だ!

腊月紅は顔を挙げて叫んだ「 班主!どうか情けをかけて師姐を嫁がせてください!」商蕊は叱責し「 黙れ!お前が口を挟むことじゃない!」と声高に叫び続けた。「 二月紅!」 この一声は喉が破裂するかのような音でそれはまさに大花(くまどりの男役)役者の声であり、格別に怒っている様子が見て取れた。

二月紅は恐怖で震え急に頭を上げ、商蕊と目が合った。商蕊の双眸は澄み、一切の人間味がなく、冷たくて硬く、まるでこの世のものではない、つまりそれはまるで血肉の通った眼ではないかのようだった。水运楼で商蕊に三、四年もの間直に教えられてきた彼女は、商蕊の性格をよく知っていると思っていたが、今日は彼女が以前知っていた班主よりも百倍千倍も理不尽に思えた。商蕊自身の親師姐が水运楼を離れて結婚することになった時のかつての噂話を思い出し、商蕊がどれほど冷酷で非情に夫妻の仲を引き裂いたかを考えると、師徒の情に頼ることは不可能に思えた。

二月紅は冷や汗をかき、額を腊月紅の背中に押し付けた。腊月紅は心の痛みが限界に達し、焦りのあまり生まれたばかりの子牛のような力で商蕊に向かって頭突きをした。商蕊は数歩後ろに退かされるほどの力で頭をぶつけられた。まさか彼が本当に手を出す勇気があるとは!

腊月紅は商蕊の鼻先を指差して叫んだ。「あなたたちは何の権利があって私の師姐を非難するのか!薛千山が彼女を選んで彼女が自ら行きたいと思ったからか?彼女が行きたくないと言ったら、冷やかしを言うのをやめてくれ。すべては彼女が背負うことだ!」商蕊は胸を押さえながら腰を折ってむせ、程台は彼を心配しつつも笑って背中をさすって言った「まったくこれはまるで狂った犬だな」

狂ったのはまだ序の口だった。腊月紅はテーブルの上から西瓜の包丁を手に取り、みんなに向かって振り回した。沅たちは驚きの声を上げて跳び上がって逃げた。程台は腊月紅が本気で発狂するとは思わなかったので商蕊を守るために急いで彼の身を後ろに回し、小来も必死で商蕊を引っ張った。腊月紅は刀先をまず沅に向け、二度振り回した後商蕊を指差し、歯を食いしばりながら一言一言言い放った「師姐は結婚が決まった!また誰かが彼女をつるし上げて苦しめようとするなら、僕は、僕は・・・!」矛先を誰に向けたらいいかもわからずむやみに包丁を振り回すと、二月紅が彼の腰を抱きしめ「腊月!駄目よ!」と泣き叫んだ。腊月紅は雄たけびを上げ力強く刀を振り下ろし、目の前の茶卓を叩き割った。すかさず商細蕊は、籠から出された野良犬のように飛び出し「腊月紅!」と大声で叫びながら、彼を蹴り倒した。そしてその手から西瓜包丁を奪い遠くへ投げた。大して食べていない腊月紅が商細蕊の相手になるわけがない。かつて平陽で商細蕊が武生を演じていた時、その拳法は地元で一世を風靡していた。普通の大男の荒くれものなど、一対五でも楽に勝てたほどだ。北平に来てからは優雅な演技を目指していたのに、自分の家でこんな悪漢と対峙することになるとは!腊月紅の非難が正当かどうかは気にせず、まずは叩き潰してから考るとするか!と腊月紅を蹴り倒した商細蕊は、そのまま彼の背中に座り込み言った。「さあ私を殴る気か?」と言いながら、さらにお尻を重々しく沈ませた。「さあ殴る勇気があるのか?!」

腊月紅は咳込むと血を吐いた。これでは彼が潰されてしまうかもしれない。周りの人々は今、驚くべきか笑うべきかがわからない。とにかく、このように人が生きたまま押しつぶされるのを黙って見ているわけにはいかない。あわてて商細蕊を引き上げようとしたが彼は頑固にも動こうとしない。彼の人生では義父と曹司令以外の誰かに殴られたことがない。あまりにも不当な扱いだと腹を立てた。彼は連打で腊月紅の頭をなぐり、同時にお尻を持ち上げて叩き続けた。痩せっぽちの少年腊月紅は、すぐにでも商細蕊によってやられてしまいそうだ。小来達は商細蕊を引っ張りながら「商老板立って!このままじゃ死んじゃうわ!」

二人の兄は手に握ったものを離すものかと腕やひじを使ってそれぞれ片方ずつ商細蕊を抱え込もうと試みた。しかし彼に振り払われ思わず笑いながら言った。「師弟!おいおい!もういいんじゃないか?俺たちが子供相手にこんな無駄な喧嘩をする必要はないだろう!強情にもほどがあるよ!」

と十九も傍らに立って諭した。「彼を教育するのに班主ともあろうものが自ら手を下す必要があるかしら?指導教官の分を残しといたらどう?」 二月紅はまったく手を出すことができず、ただ胸を裂かれんばかりに泣きじゃくるだけだった。

程凤台はもう笑い死にそうになっていた!前にすすみ出てみんなを引き離し、腕を抱えて商細蕊を嬉しそうに見つめた。その目の表情からは「おいおい、君は立派なボスだろう?こんなことして、笑えるぞ」と言っているようだった。商細蕊も彼を見上げ、その後首を振るとまるで「あなたには関係ない」という風に再び腊月紅を突き飛ばした。

台は眉をひそめ、商蕊の首根っこの肉をつまんで引き上げた。商蕊はすぐに首の後ろが痺れ手足が硬直して戦闘能力を失った。まるで猫のように体をくねらせると、あっという間に程凤台に連れ去られた。程台は彼の首根っこを掴んだまま家の中に足を踏み入れ背後の人たちに手を振りながら言った。「さ、解散解散、用があればまた明日。」

師兄師姐たちは商蕊にこんな弱点があったのかと呆気にとられた。一緒に育った仲なのに、なぜ知らなかったんだろう?彼らは当然わからない。彼らどころか商蕊自身も元からの性質でベッドの上で程台に気づかれたのか、それとも程台と一緒になってからのものかさえ分からない。これは程台だけが握っている秘密の奥の手といえよう。

台は彼をベッドの上に引きずりあげ(←部屋に引きずり入れ、彼は勢いよくベッドに転がりいら立ちの声を出した。うーむ、うーむ、と長めの尾をひく声である。ちょうどその時どこかの胡同の犬が、まるで尾っぽを踏まれたかのように長い遠吠えを始めた。その犬の声は商蕊の声よりも一つ高い音程で響き渡り、調子は同じだ。程台はびっくりし、信じられないと思いながらも注意深く聞いていた。商蕊は声楽には異常に敏感で、犬の遠吠えが聞こえた瞬間に感じ取り、内心戸惑いながらも、きっと程台がからかってくるだろう、と思い、枕の下に頭を隠して苦しそうにハミングを続けた。

台はしっかりと聞いてから、嬉しさを抑えることもなく笑い商蕊のお尻を叩きながら「おい、商老板!聞いてよ、お隣りさんが君と対話しているよ!それも商派の対話だ!」と言った。商蕊は怒って言い返した。「ぷっ!それはあなたのお隣りさんでしょ!」二人は同じ通りに住んでいるので、程台は寛大に認めた。「そうだね、それはおれのお隣りさんだ。もともと商老板の声が、おれのお隣りさんについてきたんだ!」

蕊は不愉快な笑みを浮かべ怒りを込めて言いました。「ムカつく!あの卑しいやつ!」水云楼のような場所にいると、汚いののしり言葉を学ぶことができる。しかし商蕊はあまり悪態はつかず、非常に怒っているときだけ「卑しい奴」と「恥知らず」がでてくる。この「卑しい奴」が誰を指しているのかはわからないが、あの姐弟であることは間違いない。程台は笑って腕枕をしながら彼のそばに横たわり「君たち水云楼は本当に面白いな。君は師姐が結婚したことで人を殺そうとして、彼は師姐が結婚できないといって人を殺そうとする。やばい師弟だな!俺の子供達は君よりも分別があるよ!そうだろ?君ら二人が入れ替わったら世界は平和になるだろうね!一番大喜びするのは蒋梦萍だな。」

蕊は不満そうにうーむと唸っている。程台が尋ねた。「君、あの二月、本当にそんなにいいのか?」商蕊は枕の中から悶々と「うん」と答えた。女子が旦役を演じるのは自然体で、男子が異性のしぐさを学ぶための特別な努力は必要ないため、二月は師兄弟たちよりも前に進んでいた。もう少しで成功するところだったのに商蕊は悔しくも涙をのむことに。程台は言った「じゃあ、二月と小周子、どちらがいいと思う?」商蕊は考えながら「歌唱技術はほぼ同じ。技術的にはもちろん、小周子の方が優れている。二月は武旦が少し足りない。」と答えた。程台は笑いながら言った「商老板、小周子と二月を交換したら得かな損かな?」商蕊は枕から急に身を乗り出し彼を見つめた。「范が小周子を引き抜くつもり?」「范が小周子を手に入れられないからこそ、だ。范はそういうのに疎いし、小周子をどうやって使うつもりなのか?小周子をステージに立たせて何をしようと?四喜儿の心の内はあきらかだ。小周子がデビューするのを嫌がって放す気はないだろう」商蕊はがっかりして言った「范は使えないやつだな!それでも僕にニヤニヤとしてくるとは。それではどうしたらいい?」

台は「四喜儿の態度を見て、彼に圧力をかけて引き渡してもらうしかないだろうなあ。四喜儿に迫るためには財力と権力の両方が必要だろう。だから俺は適さない。俺は君ら梨園とは縁がないし、話にならない。范も適してない。彼は賢く身を守るだけで、人を怒らせることは避けるからね。杜七は文人であって金はあるが権力不足だし四喜儿は彼を恐れない。なんといっても彼は性格が悪いし、おそらく四喜儿との交渉は破綻するだろう。唯一ここは薛千山に頼むしかないな。彼はお金をゆすられることも恐れないし、梨園との関係もあるから、場に慣れている。必要なときには、彼もちょっとしたギャングの様にふるまうこともできるしね!」商蕊は頭を垂れて考え込んでいた。程台はゆっくりと周到に先を考えるように続けた「大師姐沅に薛千山と交渉してもらおう。金銭のことは一切触れず、ただ単に二月紅が素晴らしい役者で才能があるから彼女がいないと水云楼はまったく成り立たないと言ってもらえ。唯一、周香芸がなんとか代わりになりそうだと。周香芸を呼ぶために水云楼は二月紅をむだに手放すことはない」

四喜儿から小周子を引き抜くにはおそらく二月紅二人分ほどの身売り金に相当するだろう。でもこれには金がからまない!表面上金の話はしないのに、実質かなりお得な話だ!商蕊はこの理屈を理解し、頷き続けた。「実際、沅がうまく話せば二月紅を天まで持ち上げ役者二人分を交換することもできるかも。商老板は他に誰か引き抜きたい子はいる?でも、でもまだ名が売れてない子じゃないとだめだよ。」

蕊の目が輝き、台の上に飛びかかって歓喜に満ちて言った「いるよ!無名の子が、一人いる!青衣を歌う子、声が特に良いんだ!」程台は彼の腰を抱きしめ(←彼を見つめ)た。本当に子供のような顔をしてる。時折曇ったと思ったら急に陽気になり、さっきは雷鳴と嵐のような騒ぎだったのに今はぱっと花が咲いたように嬉しそうだ。蕊はさらに力強く抱き返し、二人は空気をも抱き込むように一緒にころころと転がった。程台は商蕊の上にのり彼の顔と首にキスをした。彼は程台の顔を引っ張って、二人は互いに見つめ合うようにして言った「二、あなたは本当に私の軍師だね!」程台は笑って言った「俺は中国全土を商売で渡り歩いてきたんだ!君のこの劇団の事なんて、おちゃのこさいさいさ!杀鸡用牛刀 (鶏を殺すのに牛刀を用いる) ってもんだ!」商蕊は油で綺麗に整えられた程凤台の髪型をぐしゃっとかき乱し、一見真剣な面持ちで言った「狗軍師、ほら、犬の頭を触ってやったぞ!」程台は怒り笑いし、頭を沈めて彼をがぶりと咬んだ。(←この二爷を犬頭呼ばわりするとは、どうこらしめてやろうか!)


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*「狗头军师」(犬頭軍師)→軍師ではあるが下策なアイデアをばかり出す人

 「杀鸡用牛刀」→小さな事を処理するのに大げさな方法は要らない

*芝居一筋の商老板、時には他人への非情な行動もいとわない。ここに第三者的立場で冷静に判断できる二爷がいてよかった。「犬頭軍師」とはいえナイスな取引ではないかな。さすが世渡り上手のビジネスマン。小周子ゲットへの道筋がこういう流れになるとは。そして狂犬と化した商老板を一瞬でおとなしい猫ちゃんの様にふにゃんと黙らせるテクがウケる!( ´艸`) 狂犬に犬頭軍師、近所の犬と犬ずくしですね。


# by wenniao | 2024-02-02 17:17 | 「君、花海棠の紅にあらず」原作を日本語訳 | Comments(0)

「君、花海棠の紅にあらず」(「鬓边不是海棠红」)原作日本語訳 60-1

60-1 軍師

翌日程凤台は早起きしたが、歯を磨いて朝食をとりすでに午前十時を過ぎていた。鏡の前でスカーフを首に巻いていると三男坊がパタパタと近づいて父親の太ももに抱きつき、彼を見上げた。程凤台は喜んで「おい、この悪ガキ、パパと呼んでみろ」と言った。三男坊は一生懸命『パブプー…』と声に出したがぶくぶくいうだけで、唾液が程凤台のズボンに飛び散った。程凤台は大笑いし、足を引いて子供の柔らかい髪を触り、彼を抱き上げ重さを感じた。彼は腕の中でまだ小さく、性格や顔だちがまだはっきりしない。ただ白くて柔らかく太っているだけだ。もしも二奶奶がそんなに気にかけないなら、彼を適当に育てて形成していくのも面白いかもしれないと考えた。子供はこの時期が最も楽しい時だ。十歳くらいになると面白くなくなり、特に親子の関係が疎遠になる。そんなことを考えていたら、十数歳になろうとしている長男と次男が挨拶しに入ってきた。最近大学でストライキがあり彼らも影響を受けて休校になっている。二人の兄弟は家に拘束され、一日中読書したり勉強をしている。

程凤台は言った「弟の面倒を見てやってね。お母さんがいつも抱っこしきすぎて体調が悪くならないように。」長男は頷き、にこにこと父親を見つめ、何か言いたげな様子だった。程凤台は続けた。「使用人にも抱かせすぎないで。抱きぐせがついて地面を歩けなくなると困る。兄貴として、普段から一緒に遊んで、話すことを教えてあげてね。」長男は再び頷き、しばらく考えた後、「父さん、僕たちがお母さんと一緒に弟の世話をするよ。お父さんも一緒に外に出て散歩しようよ」と言った。

程凤台が子供たちを見ると次男坊は兄の腕の後ろに隠れ、長男はとても控えめに笑っていた。程凤台は子供たちを連れて行くことにあまり乗り気ではなかった。子供を連れ出すと二奶奶との間に問題が生じる可能性があったからだ。しかし普段子供たちは彼にほとんど何もおねだりをすることはない。彼はわらってごまかすように「お母さんに聞いてみて。お母さんがいいと言ったら連れて行くよ」と言い訳した。

予期せず、その日は二奶奶が麻雀をする人を家に招待していて、子供を見る暇がなかった。二人の兄弟たちが懇願すると彼女は了承した。程凤台は仕方なく子供たちを連れて後海に行き、遊んで食べて買い物をして、公園を散歩した。二人の子供たちは大喜び、汗をかいて楽しんだ。午後、子供たちを家に送って昼寝させた後、彼はさらに大きな子供のことがきがかりで、直接商宅に向かった。

程凤台心の中の大きな子供商細蕊は、今まさに庭の籐製のベッドの上で巨大な赤子のように仰向けに寝そべり、頬が紅潮し息を荒くしていた。その後ろでは小来が彼のために傘を差し持ち、その前には小さな四角い机があり、上には急須やてぬぐい、折りたたみ扇子、西瓜が並んでいた。あと一つ拍子木があれば講談師の台のようになるところだが今は彼の執務机として機能している。沅と十九は二人で水雲楼の内務を引き受けているので当然のようにこの場にいて二人の兄弟師匠と一緒に座っており、中央に跪いて泣いている二月紅を囲むようにして、まるで三者会議のような状況になっていた。

役者たちはいつも昼夜逆転の生活を送っている。商細蕊は昨日大変怒っていたが誰も理由がわからなかった。皆商細蕊の号令に応じて、侯玉魁の喪に服し飲酒や、女、賭け事を避けていた。誰が彼の怒りをかうためにききだそうとなんてするだろうか?今日は何もない日でみんなよく寝て午後までダラダラしてから二月紅を連れてきた。この時点で商細蕊はすでに怒りで具合が悪くなっていて鼻血が流れ、声もかすれていた。本来京劇役者は少し喉に不安を抱えているが、彼は毎年秋に咳をする傾向があり、重症の場合一か月も咳が続くことがある。しかし、今回は完全に怒りが原因の体調不良、降ってわいた災難で無実の罪をきせられた感がある。それだけに更にイライラするのだ。

台が入るとその様子を見て足が止まり、笑って言った「おや!商老板、お取り込み中だね。邪魔しちゃ悪いな」 商蕊は何か言おうとしたが喉がゴロゴロと音を立て二回咳払いし、眉をひそめて目を見開き怒りっぽくなった。程凤台は彼が自分にいて欲しいと思っていると察した。はその表情を見て急いで立ち上がり、笑って言った「二は他人ではないでしょ、ここに座って!豪華な椅子もありますよ。」 程台はゆっくりと中庭に歩み寄り「師姐、座ってください。私は立ってお茶を飲んで涼むよ。」そう言って商蕊の茶壺を直接手に取り、一口飲むと、茶の中には火薬のような奇妙な匂いが漂っていて飲み慣れない。たたまれた扇子を開けてぱたぱたと扇ぐと一面に金色がさす。台の上にあったのは使い古した金泥の牡丹扇子だった。 沅は笑顔を押さえ、冷酷な目で二月に尋ねた「あんたどうぞ続けて!」

二月はすでに不正な関係をきちんと認めていた。もう何も話すべきことはない。沅がこのように執拗に尋問しているのは、明らかに二月の面子をつぶすつもりだ。沅がこんなに憤慨しているのも理解できる。彼女は梨園で賢くて有能な者や注目を浴びる者に嫉妬し、おまけに若くて美しい女が良縁を見つけることを毛嫌いしているのだろう。沅は北平で長い年月を過ごしても、薛千山とはいい関係にならなかった。蕊も彼と付き合ったことはあるが、なんといっても商細蕊は商細蕊だ。この二月はどこの穴ぐらから這い出てきたっていうの?毛も生えそろっていない卑しい娘のくせに!

蕊は彼らがどのようにねんごろになったのかという点には全く興味がなく、水云楼に彼女を居続けさせるためにどうやって二人の仲を引き裂くかに頭が向いていた。重要なのは舞台で自分と共演させるためだ。自分の師兄や師姐の前でドアを閉めると、理知的で友好的、忍耐強いといった徳目はすべて一旦無視し、宁九郎に教えられた舞台人としての行動様式もすベて捨て去り苦し気に「結婚しないで、ここに残ってくれ。私が守ってあげる。」といった。

台は彼のしゃがれ声を聞いて、その刺すような耳ざわりさに少し心配した。商蕊の声が損なわれてしまうのは、まるで絶世の美女が顔を傷つけられたか、世界一の手練れが武功ができなくなったかのようで、特に心が痛むのだ。彼の喉が痛むたびに、ここまで壊れたらもう歌えなくなるのではと配するが、しばらくするといつも通りに回復してしまい、それはまさに持って生まれた素質であると言わざるを得ない。

二月紅はおろおろして十九を見つめた。十九は商細蕊の今回の意図をよく理解しているので珍しく沅に向かって直接はむかうことは避けた。彼女は二月紅を助けるために商細蕊と対立するわけにはいかない。十九は片方の眉を上げひたすらにお茶を飲み二月紅と目を合わせないようにして考えていた。何を慌てているんだろう?薛千山はすでに結婚を公表してるし彼はあなたを留めることができるっていうのかしら?こんなことで人を引き留めることができるなら、それは真の班主の腕前ってものよ。二人の大師兄は自分らには関係ないと決め込んで無視していた。一人はくるみをこねくり回しながら目を閉じて神妙にしているし、もう一人は鼻をすすり小声で歌いながら、みずから一杯の旨いお茶を入れて優雅に味わっていた。これはまるで北平の何もすることがない老人たちの風景で、彼らはそこに座りすっかり背景となっている。

は商細蕊の代弁者となり、机をたたくと二月紅の顔に向かってつばを吐いた。「班主がひきとめてるんだからもう少しメンツをたてたらどうなの!薛家が華やかにやってきておめでたい行事を行うなんて本気で期待しているの?そんな夢を見るのは無駄だわ!ただの寝言じゃないの?それにあんたと水雲楼との契約はまだ終わってない。私たちはあんたを手放さないし、薛家も公然と奪いに来るわけにはいかない。もう少し分別を持ってくれないと、これからは舞台に立たせないし、一生班から出られないようにしてやるわ!」

二月紅はただひたすら地面に跪いて泣き続け、太陽の日差しによるものなのか息を詰まらせているのか分からないが、小さな顔は真っ赤になり、沅は憤慨して罵り続けこちらも真っ赤になっていた。程凤台は仲間同士の冷酷さを目の当たりにし、口を挟む余地がなく、軽蔑の念を抱いていた。彼はこの光景を好ましく思っておらず、一群の人々が一人の少女をいじめているのはどうかと考えていた。商細蕊の肩を軽く叩いて部屋に入って寝るつもりだったが、商細蕊は彼の手をしっかりと握りしめ離そうとしなかった。商細蕊は二月紅の泣きっ面に悩まされ、同時に沅のつるしあげがどこかずれていると感じていた。彼の考えは、結婚は火の中を飛び越えるようなものであり、舞台で歌い続けることが唯一の明るい道だということだ。沅の言葉は、まるで遊女が身請けされ新しい人生を始めようとする時に、おかみが値段をつり上げて手放さないようなものだと感じていた。

商細蕊はもぐもぐとわき目もふらずに西瓜を食べ始めた。彼は西瓜の種も吐かずに食べ、まるで猪八戒が高麗人参を食べるかのようであり、程凤台は彼は味覚を感じ取れているのか疑念を抱いた。一切れを食べ終えると、のどがすっきりと冷たくなり嗄れた声で短く言った。「彼女に路金蝉の事を話してくれ。」

十九と二人の師兄は皆驚きで顔を見合わせた。沅も一瞬固まり、それから二月紅を睨みつけるように振り返った。二月紅はその厳しい視線に怯え唸った。

商細蕊が水雲楼を引き継いで以来既に七、八人の女優たちを嫁に出していた。幼少期から共に成長した師姉妹もいれば、よそから来た女優たちもいた。彼女たちはすべて人の姨太太(妾)として嫁いでいった。その中で最も良い結末は子供を生んでつつましく淡々と過ごすこと。路金蝉の場合は最悪の結末ではないが最も典型的なケースと言えた。最初は互いに愛し合いまだ結婚する前は、彼女の名前「金蝉」にちなんで、男性は黄金でできたガチョウの卵くらいの金の蝉を彼女へと楽屋に届けさせた。箱を開けるとまばゆいほどの金塊のような輝きが広がった。蝉の羽は金糸で織られていて模様ははっきりと細密で、まるでいままさに飛び立とうとする姿だった。二つの眼は黒翡翠がはめ込まれ、脚の棘までもが生き生きとしていた。これは宮廷の職人が手掛けたといわれ、実に貴重なものだった。当時みんなは羨ましがった。商細蕊も曹司令宅や斉王府で多くの珍奇で異国情緒たっぷりな宝物を見てきたが、この金蝉には目を奪われ手に持ってしげしげと観察した。路金蝉の夫は笑って商細蕊に言った。「商老板、生身の路さんを僕におくれ。僕が金の様にあつかうってことがこれでわかるだろう?」周囲の女優たちは一斉に歓喜の声を上げ路金蝉は大変得意そうに笑った。

しかし、結婚し実際に生活を始めたら夫は彼女を大して大事にはしなかった。結婚前には天に届くほど褒めそやしていたのに、彼女と一緒に過ごす時間は減っていった。そして路金蝉は徐々に自分が孤立無援な環境にいることに気づき始めた。家族全体は元妻たちの一団であり、多くの視線が彼女に注がれ、何かあればすぐに叱咤される。劇団にいた頃に培った派手な性格や、ファンの追っかけや拍手に慣れていることが、彼女を賑やかで多彩な生活から離れ普通の夫人になることを難しくしていた。歌っている時は結婚して安定した生活が欲しいと思い、結婚すると夢中で歌い続けたくなる。そのため、心の喜怒哀楽が安定しなくなり時間が経つにつれて夫も彼女に見向きもしなくなり家庭内での生活がますます困難になっていった。一度望みをかなえるためにある集まりで歌を披露した。そのあとすぐに彼女が男の役者とねんごろになり楽屋で手を握ったなどと噂され、夫からは顔に平手打ちをされ、片方の耳が聞こえなくなった。その後子供を生むと喉や体つきが完全に崩れ、もう二度と戻ることはできなくなってしまった。

ある大雨の日、路金蝉は夫の家とどうしても折り合いがつかず、ずぶ濡れのまま水云楼の裏口に駆け込み商蕊の前でひざまずき、彼女は舞台に戻れるなら口をきかなくても構わないと言った。商蕊は彼女のしわがれ声、浮腫み、青白い顔、定まらない目を見て、彼女が人間らしさを完全に失ってしまったことに驚いた。女性が出産後に経験する変化について考えながら彼女を受け入れるべきかどうか思案した。しかし、商蕊がはっきりと考えを巡らせる前に、夫の家から人が現れて路金蝉を引きずり出した。路金蝉は雨の中で商蕊の名前を叫びながら助けを求め、その声に誰もが恐れおののきぞっとした。商蕊は後を追い雨に濡れながら高らかに言った「彼女は歌いたいんだ!彼女に自分で決めさせてあげてくれ!」しかし、誰もが彼を無視した。このような家庭に陥ってしまった女性は、すでにこの段階ではもはや自ら自分の運命を切り開くことはできないのだ。

はまるで脅すように路金蝉の過去を話した。座っていた一人の師兄は、この美しい師妹のことを今でもはっきり覚えており残念そうにため息をつき、それは物語の悲惨さを現実味を帯びたものにした。程台は二月の顔色が真っ赤から真っ白に変わり、うなだれていくのを見た。沅は商蕊がじゅるじゅるとスイカを食べている姿を背景にして自分の胸を叩き心底言い放った「なんかいいなさいよ!班主とは比べものにならないけど、私のからだもなかなかのもんだとおもわない?誰もいないわけじゃないし、結婚してと跪いてくれないわけじゃない!もう三十歳近いのになぜうまくいかないの?私だって女なのにさ!」ここで彼女の目が赤くなりハンカチで鼻を押さえ、まだ言い続けた「あなたの経験はまだ浅い!小金持ちの男を結婚相手に選んだけど、誰もが新しいもの好きで古いものが嫌い!信頼できる人がどれくらいいるのかしら。普通女性は生計をたてる手腕がないと男に頼って一生喰っていくしかないの!私たち自身は稼げるし、若いときに十分お金をためないと、他人の家に行ってすべて台無しにされちゃうわよ。あんた達はちゃんとした夫婦でもないし、後ろ盾も蓄えもないし手段もない、あんたは辛抱強く耐えるしかないのよ!路金蝉はあんたよりも何百倍も賢いわけじゃない。金の蝉を手に入れたのにああいう末路よ。あんたは愚かよ、薛千山に金の龍や金の鳳凰を作ってもらわないと、他人の家の中でやっていけないわよ!」

の口調は不快だが言っていることは正しい。程台と商蕊、長くこの世界で生きてきた者たちは理解していた。妾になることは問題ないかもしれないが、まだ世間知らずで何も持たないまま他人の家に入って小妾になることは、心を傷つけられやすく深刻な場合には命にかかわることもある。商蕊は二月が火の中に飛び込むことになると多くの例を見てきた経験から予測できた。

二月はこれらの話を聞いて、お腹を抱え口を押さえて悲しみに打ち震えながら言った「遅いわ、もう間に合わないのよ!」そう叫んだ後、彼女は恥ずかしさと悔しさで身をかがめ、地面に倒れて泣き崩れそうだった。人々は彼女のお腹を見て、一様に表情を曇らせた。

台は「薛千山、あの畜生め!」と心でつぶやいた。最初に関係を持ってその後結婚するならともかく、妊娠してから結婚とは。いたいげな女の子がいきなり妊娠し、まだ子供時代を十分味わわないままに自分が母親にならなければならないなんて、怖くないわけがないじゃないか。小来は日傘を折り畳んで二月を支え上げようとした。しかし、二月は動こうとせず、ただ傷ついて泣くばかり。

蕊は西瓜から顔を上げたがなぜ二月紅が悲しむのかわからない。「間に合わないことはない。心配するな、私が薛千山と相談する。彼だって無理強いはしないだろう。」本当に何もわかっちゃいないなと程台は舌打ちし商蕊の背中をパンと叩いた。沅も商蕊にすぐに説明せず、代わりに十九を睨みつけ冷笑して言った。「これがあなたがかばってる人間なのよ、身ごもってるって訳。知らなかったの?」

彼らの掟では、誰かと寝ることは大したことではないが、妊娠してしまったら完全に卑しい存在となり、妊娠しているのに黙って報告しないというのは師を欺くこととなり、致命的な過ちだ。十九は怒りで顔色を変え、前に出ると二月紅に向かって手のひらで一発叩きつけた。顔には当たらず髪が乱れて頭にかかり、ビンタをされたよりなお悲惨に見えた。

蕊もとうとう理解した。西瓜を放り投げ、咳き込んだ後突然立ち上がり怒って言った「おろせ!(堕了!Duo le!)」聞いていた人々は、彼が二月紅を「(Duo le→切り刻む)」つもりだと思い商蕊がいつこんな荒くれものになったのかと一様に驚いた。

台もこの役者が無邪気で真面目に見えるのに、自分にはむかうものに出くわすとやることが残虐になるとは思わなかった。その時中庭からどたどたと何者かが部屋に入ってくる音が聞こえた。腊月紅が壁を乗り越えて飛び降り、そのために青い瓦が数枚割れて散乱していた。二月紅が尋問のために連行され彼は気が気ではなく、その後を追って壁をよじ登りここまで除き見していたがいてもたってもいられなくなったのだ。腊月紅は死を覚悟で中庭に押し入り、姐の傍らに跪き彼女を自分の背後に押しやった「 班主は姐を切り殺すつもりですか?それなら先に僕を殺せ!」

蕊は目を見開いて言った「 彼女を切り殺す?堕胎をしてほしいだけだ!」そして頭を振って庭に散らばった瓦を見て眉をひそめて言った「おまえに武術を教えたのは、私の家に上がって屋根の瓦をはがすためではないだろう?」

たちも腊月紅が規則を理解していないことに非常に腹を立てていたが、唯一程台だけがニヤリとした。商蕊は手を背中で組んで二三歩歩き、急に身をひるがえして言った「姐に子供をおろさせるのは彼女のためだ。お前は口を挟むな。二月紅、お前はどうするつもりなのか?」

二月紅は激しく頭を振った。彼女は薛千山と結婚できず子供を姓なしで生む可能性があること、同時に薛千山と結婚した場合、金蝉のような運命が待っている可能性もある、ということに恐れおののいていた。しかし、堕胎するのは怖い。場合によって自分が命を落とす結果になるかもしれないし、血のつながりのある一つの命をどうして捨てさることができるだろうか!

蕊は怒りに満ちた表情で二月紅の前に歩み寄り足を止め、高い位置から彼女を見下ろした。腊月紅は師姐をさらに固く守り、頭上で雷が轟くのを聞いていた。「何度も言ったろう!どうして考え直さないんだ?ただのつまらん妾になりたいのか?薛千山はいつも家にいないし、穏やかな日々がおくれるわけないだろう?」そして急に口調を変えて巧みな言葉で子供をそそのかすように「水运楼に残れば、来年は年季を終わらせ給料を上げてあげよう。一部屋を独り占めさせてあげるよ、どうだい?」と言った。

*緑部分はWEB版のみ

119.pngしろうとの趣味の簡略版の翻訳です。誤訳ご了承のほどを。時々訂正します。無断転載禁止

*二爷、まあまあ良きパパの部分は本ではカット!かわいい盛りの三男坊、そこからのいい男への改造計画もいいかもしれない。でも一番かまいたい相手は巨大赤ん坊商老板。ドラマ7話のくだりがここででてきました。相変わらず男女の色恋沙汰のことになると察しの悪い商老板。ドラマではヒマワリの種のようなものをずっと食べていましたが、原作では西瓜だったんですね。ここでのセリフ,「堕了!(Duo le)!」と「(Duo le)!」は両方四声で発音が全く同じ。ドラマの字幕も確認してみましたが同じようなセリフで、読んで初めてそのオチ(?)に気づきました。そりゃあ腊月紅が血相変えて飛び込んでくるはずだわと思います。怒ると何をするかわからない商老板、弟子が一番よく知っている。姐が切り刻まれるのは阻止しないと!(まだまだ続きます)


# by wenniao | 2024-01-21 17:07 | 「君、花海棠の紅にあらず」原作を日本語訳 | Comments(0)

「君、花海棠の紅にあらず」(「鬓边不是海棠红」)原作日本語訳 59-2

59-2(范涟の長い長い誕生日の宴)

二人が食事をしようと降りてくると人々は既に箸を動かしており、は主席の席に彼ら二人に隣り合った席を用意した。人々は彼らを見ると自然に挨拶や賞賛の言葉が飛び交った。ただ商蕊の気持ちは完全に沈んでおり無気力な笑顔を見せながら、范金泠の嬉しそうな声を聞くと憤りを込めたまなざしを向けた。程台は舌うちし、彼の腕を叩いて椅子に座らせると翅スープをすくって飲ませた。美味しい料理をちらつかせて少しでも彼の怒りを抑えたかったのだ。彼ら二人は遅れてきたが彼らよりももっと遅れた者がいた。

杜七は気品を持って遅れてやって来た。後ろに一人の従者が贈り物を持ち、杜七がホールに入ると指を鳴らし一方を指し示すと、従者は指示された方向の執事に贈り物を渡し、杜七自身は帽子を取り笑顔で言った「すみません、范二さん、遅れてしまいました。」

は実は杜七のことをあまり好きではなかった。役者が少し向こう見ずなのはまだ許容できるが、杜七は学者であり大学で教授をしている人物でありながら、役者たちと同じようにがさつなのは品性が低い。針の穴ほどの狭い心を持った辛辣な文人は、深い友情に値しない。彼にとっては心の広い人物、例えば常之新や程台のような人の方が価値がある。しかし范は押しも押されぬ社交上手、普段は笑顔で会話する仲の良い友人であった。こちらの主席の席は満杯で、范は急いで一席を追加するよう促し、薛千山は椅子を動かし「七公子、ここに座ってもいいよ」と言った。

杜七はまるで聞こえないふりをして、商蕊の隣を指差し、「ここに置いて」と椅子を持った使用人に告げた。程台は不機嫌そうに椅子と皿をずらした。商蕊は杜七を見てちょっと喜び「七少!来たんですね!最近はどう?」と聞く。杜七は軽率な性格で、座ると商蕊の口の端にスープがついているのを見て、親指でそれをこそぎ取り自分の口にぺろりと入れて笑いながら言った「とてもいいよ!私の商老板。」

台は彼を見て不快になった!しかし一瞬で場が盛り上がった。皆が立ち上がり、杯を持ち、范に今後も幸せな歳月をと祝辞を述べた。范台と商蕊をちらっと見て思った。今日の誕生日にこの二人が交じるとやっかいなことになるな、これからもこんな感じなんだろうな。一杯を飲み干そうとしたところで、薛千山が大声で言った。「皆様お座りください、もう一杯もう一杯!」

皆、彼の顔が紅潮し、まるで何か喜ばしいことを発表するつもりだと察した。実際に、薛千山が言った。「今日は范二さんの良き日に乗じて、私も幸せを分かち合いたいと思います!皆さんにお知らせしたいことがあります。この月の十八日、私、薛某は姨太太を娶ります!ここにいる皆さん、もし時間があれば、喜宴にお越しください!」

はさっき彼と五台の車の話をしたが、そんなことはちっとも聞いていなかったし、他の人々ももちろん知らなかった。薛千山は程鳳台や范とは違い大きな後ろだてはなく、商売に熱心で自ら動き、北平にはあまりいないので彼に関する情報も少ない。彼は九人の姨太太を次々と娶っており、曹司令よりもさらに傲慢で、今回の新しい結婚でちょうど十人になる。

すぐに誰かが尋ねた。「薛二、新しい夫人はどこのお嬢様ですか?」「いつももの静かな人が、いきなり嫁をもらうだなんて!薛二!そこいらの娘を強引に奪ったんじゃないの?」みんなが薛千山をからかい、興味津々で冗談を言った。彼らは三妻四妾が普通である一方で、金持ちが一人の妻だけを守り、清廉潔白な生活をしているのを見ると密かに憶測や注目が集まる。よほど妻が怖いか、もしくは人に言えない病気があるとか偽善者だとかとなにかと噂が立つ。しかし、薛千山は妻を多く娶ることに精を出しているように見え、これがまた別の意味での笑い話になっていた。

台と范は軽蔑の念が微かに宿った目を交わした。妾を手に入れることを他人の誕生日の宴会で発表するなんて、あまりにも得意げすぎるじゃないか。蕊は微妙な感情を抱いているようで、それは薛千山が好きか嫌いかではなく何か他の理由があるようだ。北平に来てから、薛千山は彼を一方的にひたすら熱心に追いかけていた。商蕊は追い求められることに慣れており、あまり気にはしていなかった。彼を単なる裕福な友人と見なしていた。しかし今日彼が新しい関係で喜びに満ちているのを見ると、自尊心が傷つき自身の魅力がなくなったような感覚になった。もし程台がこれを評価するならこう言うだろう:虚栄心だ!これが役者の虚栄心ってもんだ!

皆、薛千山が新しい夫人について話すのを待っているが、杜七は無表情で箸を持ち、ただひたすら酒を飲み肉を食らっていた。薛千山は笑みを浮かべ目線を杜七を通り過ぎ商蕊の方に向け、自ら彼に一杯の酒を注いで言った。「私の新しい夫人、それは――ああ!商老板、ここに来て、杯をかかげましょう!」

誰も理解できなかった。なぜ彼の新しい妻の話に商老板が関係しているのか?商蕊は混乱して杯を持ち上げ、みんなに注目される中で、少し恥ずかしそうに顔を赤くした。程台は心の中で罵倒した:くそっ、お前が恥ずかしがるなんておかしいじゃないか!

薛千山は「この一杯は私が商老板に捧げるものです!商老板、これまで二月をお世話してくれてありがとう!商老板、ここに来て。私が先に飲みほします!」会場は一気にざわつきだした。薛千山が水云楼の女優に目をつけているというのは予想外の出来事だった。水云楼には多くの女性がおり、その評判は良く知られていた。女優たちの一般的な結末は、ある程度の名声を得た後、裕福な人に嫁いで姨太太になることだけだ。そのため、水云楼はしばしば北京の姨太太たちの発祥の地として嘲笑されていた。しかし最近脚光を浴びている二月は演技が素晴らしく、明らかに商蕊の秘蔵っ子である。まだ本格的な成功を収めていないのに、彼女が引退して結婚するって?商蕊はどうして納得できようか?

蕊は当然ながら納得できず酒杯を持ち上げて呑むべきかどうか迷っていた。薛千山は気前よく一気に飲み干し商蕊に杯の底を見せつけた。商蕊はこの時点で微妙な感情など全く残っておらず、公然と強奪されたような衝撃を受けた。二月が薛千山と……私がこれまで彼女を育ててきたのに、どうして気づかなかったんだろう?杜七は商蕊から酒杯を奪い、テーブルに叩きつけた。その動作は乱暴すぎ、酒がこぼれてしまった。そして袖を引っ張って彼を椅子に座らせ、薛千山に一切の面子を与えなかった。商蕊は呆然としており、程台は微笑みながら彼に魚翅スープを注ぎ、この出来事についてどうしたらいいかと胸算用していた。

薛千山は商蕊の表情を窺いながら言った。「商老板、僕が引き抜くことを責めないでください。実際、長年外で働いているから母親に孝行することができません。しかも母親はほんとに二月の声が好きなんです。孝順のためにこのようなことをしなければならないんです。」

薛千山はかつて関係を持った女性全てを家に連れていき名誉を与えるために努力していて、母親に孝行することも嘘ではなかった。公然と結婚を宣言することで彼の決意が分かったので、商蕊は二月と薛千山という実力のある商人のために顔を潰すつもりはなかった。しかし彼は非常に不満気で、食事を終えたらすぐに沅や十九らに何が起こったのか聞かなくてはと思った。程台は当然ながら彼につき添っていくつもりだ。范は彼らを麻雀に誘いたかったが、程台はしょげた商蕊を指し「今日彼は僕と寝て満足したくらいで、他はただ嫌なことばかりに遭遇しているようだ。君が彼を残しても楽しみはないよ。もし後で誰かが彼をからかうことでもあったら君の客に無礼を働くかもしれないからね。」

が商蕊の諸々のことを思い出し、急いで立ち上がり二人を送り出した。杜七はぶつぶつ言いながら一本タバコをくわえ、商蕊の肩を抱きながら歩き「二月紅って娘は、まあ…悪くない、まあまあさ!同じ時期に入ってきた子だって悪くないさ、心配することはない。そもそも娘は嫁に行くから何年も歌えるわけじゃないし、結局誰もが青のようではないしね!」と言った。商蕊は何か言おうと思ったが杜七に先を越された。「わかってるよ、君はこの二年間の彼女にかけた労力が無駄になったって腹が立ってるんだろう?薛千山のクソ野郎、北平にはたくさんの劇団があるのに、なぜかお前のところが気に入ってるのさ!俺も腹が立つ!安心しろ、君のために彼をぶっ殺してやる!」商蕊は杜七の押しの強さに従順に頷き、そうなることを信じた。

蕊も察察儿もこの道中ずっと不機嫌で黙り込んでいた。程台は最初に商蕊を家まで送り、二言三言言葉を残した。そして察察儿と一緒に家に戻り二奶奶に謝罪した。二奶奶は怒って涙を拭き、察察儿が必死に懇願し、姑嫂二人はしばらく気まずい雰囲気となり四姨太太も仲裁に入った。家の中は緊張感が高まり夜は外出するのも難しかった。二人の息子たちの勉強を見てやり三男坊を抱きしめ、最後に二奶奶に察察儿が学校に通うことについて再び話し合った。

夫婦二人は子育てに関しては調和不能な大きな溝があり、二奶奶を怒らせないよう程台は三人の息子の生活には干渉しないようにしていた。二奶奶は以前彼に不満を持っていた時期にこう明言していた。子供たちは彼らの共同の努力の結果ではあるが、妊娠は十か月間彼女自身が行った主要な功労である。程台は二番目の権利しか持たないとされ、関心を寄せることは許されても干渉することは許されないと。彼女は古風な考え方を持っているが子供の問題においては非常に進歩的で、伝統に挑戦する勇気を持っていた。しかし察察儿は彼女の実の子供ではなく、彼女は小姑子に深い感情を抱く権利はない。怒りのあまり手に持っていたはさみや針糸を籐かごに投げ込みながら言った「私は察察儿に学校に行くのを禁じたことはないわ。ただ、彼女が外で学ぶことを望んでいないのよ!世の中は今とても乱れています。男は悪いことを学んで後から良くなることもあるけど、それは『放蕩息子の改心は金にも換えがたい』というもの。女の子が一度間違うと一生台無しになるわ!」

台は二奶奶が間違いなく杞憂していると感じ笑って言った「心配しなくても大丈夫だよ。察察儿が学校に入ったら老葛の娘に彼女を見張らせよう。確認済みだけど、高学年と低学年はたった一階しか離れていないんだ。それに女子校だし男の先生もほとんどいない。何の怖いことがあるっていうの?」

この問題は何年も続いており二奶奶は今回の程台の決断を見て、もう覆すことはできないと思った。程台を無視し子供を抱いてあやした。程台は「この子ももう二歳になったし、ずっと抱いている必要ないだろう。体調が悪いなら、乳母に預けてもいいんじゃないかな」といった。

しかし二奶奶は全く相手にしなかった。彼女は一度本気で怒ると目を半分閉じ、高々と頭を上げ、特有の高慢で冷徹な態度を見せる。程台がどんなに言葉巧みに説明してもまず聞く耳を持たず、しばらく経ってから忘れられるまで軟化しない。程台としては冷酷な態度をとらされるよりは大喧嘩をした方がいいと思う。心がざわついて息が詰まる感じがするのだ。その日は早めに眠ることにした。

*緑部分はWEB版のみ
119.pngしろうとの趣味の簡略版の翻訳です。誤訳ご了承のほどを。時々訂正します。無断転載禁止

*范涟のお祝いの席でさらに一波乱。杜七らしい登場の仕方が好き。商老板、今まで自分を熱烈に推していた相手が自分の劇団員と電撃結婚すると知ってげんなりする気分、なんかわかるなあ、Wショック。久々に名前がでてきた二月紅!たしかに班主としては気が付くべきでしたね。ドラマでは六月紅、原作では二月紅、なぜ微妙に名前が違うのか、という件については以前私なりの考察をしてみたので()あっているかは定かではありませんがご参考まで(22話下部感想部分)→  https://musicbirds.exblog.jp/32599312/

*察察儿の教育方針についてもめる夫婦。子供については意見が言えない二爷なんですね(自分のお腹で十月十日育てなかったからって)。しかしはっきりもの申すタイプ、奥さんとしてはなかなか手ごわい…。


# by wenniao | 2023-12-27 11:38 | 「君、花海棠の紅にあらず」原作を日本語訳 | Comments(0)